猿とタイプライター

世界でいちばん役に立つ「小説の書き方」解説

12. 名優に資金のすべてを

 さて、ここまで物語の構造について長々と書いてきたわりに具体的な作り方には全然踏み込んでこなかったわけだが、その前に構造なんぞよりも重要なものを作っておかなければならない。キャラクターだ。

 キャラクターを魅力的にする理由は今さら説明するまでもないだろう。魅力的な人間に心惹かれるという現象はもうそれだけで感動の一種だ。心惹かれている人間が葛藤したり苦悩したり勝利したりした方が、どうでもいい人間が葛藤したり苦悩したり勝利したりしたところよりも何万倍も心躍る。物語においてキャラクターこそ最重要だと考える作家はとても多い。僕もおおむね賛成する。人間が興味を持つ対象は、けっきょくのところ人間なのだ。

 しかしここで立ち止まってじっくり考えてみてほしい。

 そもそもキャラクターというのはなんだ?

 もちろん「登場人物」と同義の言葉ではある。しかし、キャラクターが物語を抜け出して愛され、二次創作などで扱われたり、キャラクターが物語よりも先に創られていたり、あるいは物語とは無関係に生み出されていたりするところを見れば、登場人物という概念を大きく超越していることは明らかだ。

 

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  ところであなたの周囲に、テレビの連続ドラマが好きな人はいるだろうか。

 幸運にもいるなら、最近のドラマについて、なにを見ているのか、どんなのが面白いのか、と色々訊いてみてほしい。そして彼女(たぶんその人は女性だろう)の言葉に注意深く耳を傾けてほしい。おそらく彼女は役名をほとんど口にしないはずだ。記憶していない可能性さえもある。代わりに彼女がうっとりとした顔で何度も話題にのぼらせるのは俳優の名前である。福山かっこいい、阿部寛うつくしい、ニノかわいい、堺雅人きもかっこいい、綾瀬はるかわいい……。

 彼女たちはべつに筋立てとかせりふとか舞台設定とかを無視して俳優だけ見ているわけではない。話の筋もちゃんと理解している。ただ、ドラマという装置によってより魅力的に演出された俳優の顔や声や話し方やしぐさや立ち居振る舞いをいちばん楽しみにしているというだけのことだ。

 最近のドラマに詳しい人が身のまわりにいなくても、昔の有名ドラマについて、登場人物の名前を憶えているかどうか(自問を含めて)リサーチしてみてほしい。憶えている方がレアケースのはずだ。しかし出演していた俳優はだれもが思い出せる。

 もうおわかりだろう。

 キャラクターというのは登場人物を演じている俳優のことだ。

 

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 生身の人間が演じるわけではない小説や漫画といった作品形態であっても、やはり「登場人物」と「キャラクター」にはちがいがある。俳優である「キャラクター」が「登場人物」を演じている、と考えると、なにもかもがすっきりする。ただし両者の差は小説や漫画では非常にわかりにくい(名前が同じだから)。

 読者が愛するのは登場人物ではなくキャラクターだ。なぜなら登場人物はただの立ち位置に過ぎないからだ。人間は人間にしか恋をしない。立ち位置は人間の魅力を増すことや減じることはあっても、魅力そのものにはならない。

 キャラクターを創ってから物語を創ることができる一見奇妙な現象も、俳優だと考えると説明できる。俳優はドラマの企画が持ち上がる前から存在している。そして多くのドラマは主演俳優が決まってから脚本が書かれる。

 キャラクターが物語を抜け出して、たとえば二次創作といった形で楽しまれることが多いのも、俳優だと考えると納得がいく。俳優のファンは出演しているドラマだけ観るわけではない。写真やインタビューの載っている雑誌も買うだろうし、トーク番組に出ていたら観るだろう。

 物語においてキャラクターが最も重要だという説も、俳優だと考えれば納得がいく。なにせハリウッド映画のあの莫大な制作費の半分以上は俳優のギャラに費やされるのだ。

 

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 しかしもちろん、キャラクターが俳優であるというのは妄想だ。

 そのキャラクターがどんな人間なのかはすべて、あなたが作中で登場人物としてどう描くかにかかっている。両者がべつものだというのはあくまで便宜上の考えだ。

 それでは、キャラクターが俳優であり、登場人物とはべつものだと便宜上考えると、どんなメリットがあるのか?

 キャラクターは創るものというよりも連れてくるものである、という意識が生まれることが最大のメリットだ。

 キャラクターの魅力を生み出すTIPSはいくつもある。ギャップがあるといいだとか、意外な弱点を持たせるといいとか、強い信念を持たせるといいとか、そういった細々した事項はあなたも耳にしたことがあるかもしれない。しかし、重要なのはなぜそうすると魅力的になるのかという理由を考えることだ。まるで魅力的ではないギャップや信念だってあるし、ギャップも弱みも信念もとくに持ち合わせていないのに魅力的なキャラクターだっている。もう何度も何度も何度も同じ話を繰り返しているが、ここでもう一度書く。方法をおぼえようとするのではなく、その方法がなぜ読み手の心を動かすことにつながるのかを深く考えることが大切なのだ。

 そして、キャラクターの魅力がどうやって生み出されるのかを突き止めるには、あなたが心底惹かれる人物を連れてくるのがいちばんだ。実在の人間でもいいし、他の創作物のキャラクターでもいい。複数人の気に入った点を混ぜてもいい。キャラクターの魅力とはいったいなんなのかを少しずつ理解していけば、アレンジもきくようになる。より魅力的になるように一部を誇張したり削除したり変更したり、だ。たとえば『神様のメモ帳』のアリスは、中禅寺秋彦とか、デイヴィッド・スーシェ演ずるエルキュール・ポワロなどといった成分が混ざり合っていて、そこに僕の好みの女の子の成分(これまでの人生で関わってきた実在及び非実在の少女たちによって醸成されたもので、もはやルーツをたどることはできない)を加えてある。他にも色々混ざっているはずだが僕も全部は憶えていない。

 気にせずに好きなだけ混ぜるといい。どれだけのスーパースターたちを共演させようとも、ギャラは一切発生しない。どうせ妄想である。実際にはあなたが書いた脚本をもとに、あなたがメガホンを握り、あなたが回すカメラの前であなたが演じるのだ。しかしあなたが夢を見続けられなければ、読者にだって夢は見せられない。

11. 地図を見ていてもラピュタにはたどり着けない

 前回の記事を読んで誤解しないでいただきたいのだが、僕はべつに物語を三幕構成で作りましょうと言っているわけではない。構成がまずあってそこに物語るべきものをはめこんでいくのではない。物語るべきものが先にあって、それをどのように効果的に語るかを決めるために構成するのだ。三幕構成はただの道具だ。とても便利で使いやすくて強力な道具だけれど、こだわってはいけない。

 三幕構成にこだわっていたら作れない物語もあることを、同じ宮崎駿監督作品を使って説明しよう。『天空の城ラピュタ』だ。

 試みに、『天空の城ラピュタ』を前回の記事で解説した三幕構成で分析してみてほしい。主人公と、それが乗り越えるべき困難がなんなのか。困難が現れて物語が動き始めるターニングポイント1はどこなのか。困難が予期できない大きな危機を喚び起こして物語が加速し、主人公の困難に対する対応が変化するミッドポイントはどこなのか。困難が激化すると同時に解決への道が示されるターニングポイント2はどこなのか……。

 一見、うまくいきそうに思える。主人公はパズーで、乗り越えるべき困難といえばムスカだ。しかしターニングポイント1はどこなのだろう。ドーラ一家が襲ってきたとき? 逃げるパズーとシータの前に軍隊が現れたとき? あるいはシータがムスカに再度捕まったときだろうか。ミッドポイントは時間的に考えてもロボットが破壊されてシータを救出し、ゴリアテラピュタに出発したところだろう。しかしそれと前後してパズーのムスカに対する考え方はそんなにはっきり変わっているだろうか? ターニングポイント2はラピュタ到着? それともムスカラピュタ王だという正体を現したところ? しかしパズーがムスカを倒す話、にしては二人の関わりが薄くないだろうか? おまけにクライマックスでパズーはムスカを倒していない。

 三幕構成に当てはめようとしても、なにかうまくいかないはずである。

 なぜかというと、『天空の城ラピュタ』は二本立てだからだ。「パズー篇」と「シータ篇」から成る連作なのである。

 

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 パズー篇は、勢いばかりで無力な少年パズーが、勇気を出してヒロインを助け出すまでを描く物語だ。だからここでの「乗り越えるべき困難」はシータが狙われているという状況そのものであり、ムスカ個人ではない。ムスカがあまりパズーに関わらないのも当然である。ドーラ一家の手を借りて基地を襲撃し、シータを助け出すところで、あたかも映画一本が終わるかのようなクライマックスシーンが訪れるのも、二本立てだからだ。

 ここで物語が終わっても、主人公たちに特に問題はない。ムスカがシータを追っていたのは飛行石を持っているからと聖なる光の呪文を知っているからであり、すでにシータが狙われる理由は消え去っている。だからパズーとシータが日常に戻らず冒険を続ける理由は、「ラピュタムスカが正体不明でなんとなくもやもやするから」というかなり曖昧なものだ。これもまた二本立てであることの証拠となる。シータ救出はミッドポイントなどではなく、話の一区切りなのだ。

 そしてシータ篇が始まる。主人公はパズーではなくシータに切り替わっている。パズーは完全にヒーローとして成長しきっており、シータ篇においては悩みもしないし成長もしないし変節もしない。主人公がパズーではない証拠である。シータが「乗り越えるべき困難」は、「シータの人生にまとわりついていたラピュタそのもの」だ。だからムスカの過去やラピュタの歴史を聞いたときに「これは自分が始末するべき因縁だ」と悟り、ようやく立ち向かう覚悟を決め、ラストシーンは「ラピュタを滅ぼす」のだ。

 二本立てなのにどうして前後がばらばらになっている印象を与えないのかというと、いくつも理由はあるが、その最大のところは、パズーにとってもラピュタが「乗り越えるべきもの」として設定されている点だ。パズーにとってラピュタは最初、父親の夢の延長の、素晴らしい宝島だった。やがて真実を知ったパズーは「ムスカから石を取り戻そう」とまで言うようになる。ラピュタを倒すべき敵だと認識したのである。この変化がシータの物語と重なるために、パズーの物語が浮いているという印象を与えないわけだ。このあたりはテーマに関する記事でも同じような話を扱っているので再読されたい。

 

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 どうして二本立てにしたのだろう?

 僕は宮崎駿ではないが、理由はまあだいたい予想できる。パズーの物語も、シータの物語も、どちらも詰め込んだ方が面白くなるからだ。そしてパズー篇からシータ篇という連作構成にするのがいちばん効果的だと判断したからだ。

 繰り返そう。三幕構成だのなんだのにこだわっていたら、『天空の城ラピュタ』は作れない。構成に物語を合わせるのではない。物語を最も強く伝えるために最適な構成を考えるのだ。