猿とタイプライター

世界でいちばん役に立つ「小説の書き方」解説

7. テーマという名のただの目印

 物語の背骨が見つかったら、次に作品のテーマを見つける。

 テーマという言葉は様々な状況で様々な使われ方をするが、小説の書き方、とくに本ブログの文脈においては、「一本の物語を通して読んだとき、最も強く読者の心に届く概念」のことである。

 それは物語の背骨のことではないのか? とあなたは思うだろう。

 実際、両者は近いことが多い。『放課後アポカリプス』の物語の背骨は「ゲーム世界の真実から目をそむけようとしていた主人公が、直視する勇気を出す」である。テーマは、「現実に立ち向かうべきだ」である。ちがいがわかるだろうか? そう、似てはいるが、テーマの方がより抽象的なのだ。

 誤解を恐れずにいえば、国語のテストでよく出てくる「作者の言いたいことはなにか?」という問題、あの答えが「テーマ」だ。

 

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 ここ三回の記事を読んできて、そろそろ疑問を抱き始めた人もいるだろう。順番が逆ではないのか? と。

 僕の提示した物語の作り方は、クライマックスに具体的に起きることをまず決め、次に物語のいちばん中心的な流れを決め、それからテーマを決めている。しかしテーマ(言いたいこと)がまずあり、それを体現するための主人公とその変容を導き、実際に作中で起きる事件を考える――そういう作り方が普通ではないのか。

 おそらく、実際にそう作っている小説家も少なからずいるはずだ。

 しかし、基本に立ち帰って考えてほしい。読者の心を揺さぶることだけが大事なのだ。そして、テーマ単体では読者の心は毛ほども動かないのである。たとえば「勇気を出すことが大切だ」というテーマがあったとして、本の冒頭にいきなりこの一文が置いてあるのを読んであなたはなにか心動かされるだろうか? そんなわけはない。実際に、よく知っているだれかが勇気を出さざるを得ない状況に追い込まれて勇気を出してなにかを勝ち取ったという具体的な話を読んで、ようやく感動するのだ。その感動の副産物として、ぼんやりと「勇気を出すことは大切なんだなあ」という感慨を得るのである。

 人間は、具体的なものにしか心を動かされない。

 これは僕が十数年間小説を書いてきて得た、最も大切な教訓のひとつだ。

 したがって、テーマよりも具体的な物語の背骨の方が重要だし、さらに具体的なクライマックスの展開の方がもっともっと何万倍も重要なのだ。

 テーマや物語の背骨を最初から決めつけていたら、読者を感動させる仕組みを思いつくときに制限がかかってしまう。それなら読者を感動させる仕組みから先に考えた方がずっといい。

 もちろん、テーマを先に決めて作ってもかまわない。考えるとっかかりは人それぞれ、話それぞれだ。でも、そうして考えを進めていって読者を感動させる仕組みを思いつく段階までたどり着いたら、前回の記事の工程に戻って、その仕組みにふさわしい物語の背骨をもう一度洗い出してみてほしい。もちろんテーマも合わせて再考する。もっとその仕組みの感動を増幅させるような背骨が、あるいはテーマが、他にあるかもしれないからだ。

 

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 今回の記事をここまで読んで、「テーマなんて要らないんじゃないの?」と思っていただければ、狙い通りだ。そう、テーマは必ずしも決めなくてもいいのである。実際に僕も、『神様のメモ帳』1巻の段階ではテーマを見つけるという作業をしていなかった。その頃はテーマの役割を理解していなかったからだ。

 テーマは、なくてもいいが、あった方がより面白いことができる。

 前述した通り、テーマは抽象的な概念だ。抽象的ということは、広い範囲に適用できる、様々な手段で伝えることができる、ということでもある。

 そして物語は背骨だけでできているわけではない。あばら骨もあれば腕や脚の骨もあるし肉もついている。主人公以外の人間だって出てくるし、クライマックスで起きること以外にもたくさんのできごとがある。

 テーマがあると、背骨以外のそういった要素にも、背骨と共通する感動を持たせることができる。

 たとえば『放課後アポカリプス』の背骨は「ゲーム世界の真実から目をそむけようとしていた主人公が、直視する勇気を出す」であり、テーマは「現実に立ち向かうべきだ」だと書いた。テーマは抽象的になっている。すなわち、「ゲーム世界の真実」以外の現実に立ち向かう場面を描いても、やはりこのテーマに沿っていることになる。だから「襲ってくる敵から逃げようとしていた主人公が、立ち向かって打ち倒す勇気を出す」というもうひとつの筋を重ねることにした。戦闘シーンも盛り上がり、なおかつ共通項を持つ二つのエピソードによって相乗効果で感動が増幅される。

 もっとたくさん重ねたこともある。憶えている限り、いちばんテーマを使い倒した作品は『楽聖少女3』である。テーマは「人が死んでも想いは残る」であり、死んだ後に想いを残した人間を四人も描いた。初稿を読んだときの担当編集の言葉が忘れられない。「最初の方はまとまりがないなと思ってたんですが最後の方でまとまりましたね」その通り、エピソードと登場人物が多すぎて普通にやっていたらまとまらない気がしたのでかなり強引にテーマを酷使したのだ。

 僕の経験から言って、共通項を持つ感動を重ねてぶつけると、読者はより感動する。なおかつ、作品全体になんとなくまとまりが生まれて読了の満足感も増す。

 

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 だから、テーマというのは「壁につけた目印」に過ぎない。同じ箇所を何度も何度も殴るための目印、だ。壁の向こうには読者の心がある。なるべく同じ場所を殴った方が壁は壊しやすいはずだ。

 「テーマがなにか」というのは、「壁のどこに目印がついているか」と同じくらいの意味しか持たない。もちろん、殴りやすい場所や壁の薄い場所に目印をつけた方がいくらか有利かもしれない。しかし、「同じ場所を殴る」こと、「壁をぶち破って読者の心に手を届かせる」ことの方がずっと重要なのだ。

 テーマを読者に伝えることは目的ではない。伝わってしまうくらい読者の心の奥深くまで物語を届けることこそが目的なのだ。

 

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 ところで、世間的には「小説のテーマ」は最重要視される傾向にある。

 理由はいくつかあって、その第一はもちろん、強く伝わるというテーマそれ自体の特性による。「これほどまでに強く伝わってくるのだから、伝えたくて書いたにちがいない」という論法だ。僕のような小説家にとっては、テーマとは読者を重ねて感動させようとした結果として伝わってしまうものに過ぎない。

 理由の第二は、実際にテーマを伝えたくて書いている作家もけっこういるという事実だ。ここまで物語の作り方を読んできたあなたならおわかりかと思うが、テーマを伝えたくて書いても、けっきょく読者に強く伝えるためには感動させるための具体的な仕掛けを必要とする。つまり僕が書いてきた手法とほとんど同じやり方で小説を書くことになる。テーマが目的であるか手段であるかは作品だけ読んでもまず判別できないのだ。

 理由の第三は、だいたいにおいてポジティヴなメッセージがテーマに選ばれることが多いからだ。愛とか勇気とか信頼とか友情とか努力とか勝利とか。僕のようにテーマを感動の補強手段として使う小説家が、ポジティヴなメッセージばかりをテーマとして扱うのは、それが読者に喜ばれるからというのもあるが、物語の背骨が人間の精神的成長という形態をとっている以上は必然の結果でもある。

 理由の第四は、たぶん国語のテストのせいだろう。