2. 目的論と方法論の相対性
前回の記事では、小説を書くという作業は選択の連続であることを説明した。選択の連続は、悩みの連続でもある。
ここで、「目的論と方法論の相対性」という考え方が必要になる。
なにやらいきなり難しそうな話になったからといって読むのをやめないでいただきたい。この場合の目的論とか方法論には哲学的な意味はなく、「なにを目指すのか」と「それを目指すためにどうするか」のことだ。「目的と方法」でかまわないのだが、なんだか頭が良さそうに見えるからという理由だけで「論」をつけてみた。
目的論と方法論は相対的なもので、観点を変えれば目的論は方法論に、あるいは方法論は目的論になる――というのが、今回のテーマだ。
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わかりやすい例を挙げて考えてみよう。
たとえば「現在地(池袋)から新宿に行く」という目的があったとする。その方法はいくらでも考えつく。歩く。タクシーを使う。山手線に乗る。副都心線に乗る。ヘリをチャーターする。それぞれにメリットとデメリットがあり、自分と周囲の状況を鑑みて最適なものを選ぶ。だれでも日常的にやっている「選択」だ。
しかしここで目的の方を考え直してみる。ほんとうに新宿に行くべきなのか?
新宿に行こうと決めたのは美味しい塩ラーメンを食べたいからだった。なるほど、新宿にはたしかに塩ラーメンの名店「海神」がある。しかし池袋にだって塩そば専門店「桑ばら」がある。わざわざ新宿に出る必要はないのでは?
さらにもう一段階再考してみる。塩ラーメンでなくてはいけないのか?
塩ラーメンを食べようと決めたのは腹が減ったからだ。しかし自宅の冷蔵庫には昨日作ったカレーの余りがある。あれでいいのでは?
おわかりだろうが、「目的論」とは、とりもなおさず「その一段階上の目的への方法論」のことだ。そして、ある段階での目的が変更されると、そこより下の段階の方法論はすべて無意味になってしまう。家でカレーを食べるのが最適と決めたら、海神か桑ばらかで悩む必要などないし、ましてや新宿に行くのにタクシーか電車かなんて考えてもしょうがないわけだ。
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当たり前の話じゃないか、目的論と方法論の相対性なんてえらそうな題をつけなくても、と思った人も多いだろう。
でも小説を書く上で、この考え方は非常に大きな意味を持つ。
何度でも書くが、小説を書くという作業の本質は「選択の連続」だ。ミニマルな視点でいえば、「次にどの字を置くか」という選択の連続が小説執筆作業の正体なわけだ。
たとえば夏目漱石は「吾輩は猫である」の最初の文字に「吾」を選んだ。どのようなプロセスでこの一文字が選ばれたのかというと、
1) とても面白い小説を書きたい
2) 猫が俗物どもを皮肉に眺める小説にしたい
3) 猫の視点で人間を描くという特殊な設定をまずわからせたい
4) 最初に主人公である猫の自己紹介をしたい
5) 冒頭にずばりと自分は猫だという文章を置きたい
6) 最初の一文字は「吾」だ!
……こうである。(僕は夏目漱石ではないが、雑司が谷霊園に行って本人の霊に訊いてきたので間違いない)
6)は5)の目的を達成するための方法論から導き出された選択だ。同様に、5)は4)の目的のための方法論、4)は3)のための方法論、3)は2)のための……とどこまでも遡ることができる。*1
ある段階の方法論でどうしようもなく迷って悩んだとき、落ち着いて、深呼吸して、コーヒーでも淹れて、それから一段階上の目的論を方法論として考え直してみよう。「冒頭で猫が自己紹介をするべきだろうか?」と悩んだら、それ以前に「猫視点をそんなに丁寧にわからせる必要はあるのだろうか?」と考え直してみる。そこでも悩んで結論が出なかったら「猫が俗物どもを皮肉に眺める小説でいいのだろうか?」とさらに一段上を考える。下の次元の方法論で悩む必要などさっぱりなくなる解決策が出てくるかもしれないのだ。
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この考え方は非常に役に立つが、同時に危険性も孕んでいる。一文字書くたびに「俺は幸せになるために小説なんか書いていていいのだろうか?」あたりまで遡って考えていたら一生かかっても書き上げられない。目的を遡った方がいいこともあると理解した上で、それでも上から目的をしっかりと固めていくことも大切だ。
……が、長くなってきたのでこの話は次回に回そう。
*1:1)のさらに上にも遡れるが、人生とか哲学とか宗教にまで踏み込むことになる話題なのでここでは扱わない。