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猿とタイプライター

世界でいちばん役に立つ「小説の書き方」解説

1. 無限の数の猿はシェイクスピアになれるか?

 小説の書き方を解説するにあたって、最初にどうしても避けて通れない問題がある。それは、「小説を書くというのはつまるところどういう行為なのか?」だ。

 

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  僕は「1冊書くのにどれくらい時間かかるんですか?」と訊かれるたびに答えに困る。小説家というのは毎日毎時毎分毎秒しめきりに追われて机にかじりついてカタカタ原稿を書いているように思われがちだが、全然そんなことはなくてほとんどの時間はごろごろしたり漫画を読んだりゲームをしたり昼寝をしたり旅行にいったり飲んだくれたりしている。しめきりに追われて机にかじりついてカタカタ原稿を書いている状況をtwitterなどでアピールする小説家は僕を含めてたくさんいるが、なんのことはない、普段遊んでいるからしめきり前にそういう状況に陥るだけなのだ。

 もちろんなにごとにも例外はあるもので、ほんとうに毎日何時間も机に向かってずっと仕事をしまくっている小説家もごくまれに存在する。そういう小説家は以下の二つの特徴から簡単に見分けられる。

・年に15冊とか20冊とかそれくらい本が出る。

・忙しいアピールをしない。している暇もないから。

  机に向かってキーボードを叩いている時間だけを合計すれば、おそらく本1冊につき60時間くらいではないかと思われる。しかしこの数字イコール執筆時間だと捉えられては困る。「じゃあ週に1冊書けるんですね?」とか編集に言われても困る(そしてほんとうに書けてしまう人間も先述の通り実在するから困る)。実際のところ、小説を書く作業のほとんどの時間において手は止まっている。考える時間の方が10倍多い。

 いったいなにをどう考えているのか?

 小説を書くというのは、つまりなにをしていることなのだろうか?

 

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 猿タイプライター理論、という有名な思考実験がある。

 猿にタイプライターを与えて叩かせると、生み出されるのはランダムな文字だ。その猿が"i"のキーを叩く可能性はじゅうぶんある。すると、そこには"私"という言葉が発生したことになる。あるいは"c"と"a"と"t"を連続して叩く可能性だって少しはある。"猫"という言葉も発生しうる。もしかしたら根気よく待っているうちに"i" "a" "m" "a" "c" "a" "t"と続けて叩くかもしれない。"吾輩は猫である"の冒頭の一文も猿に書けてしまうわけだ。この推論を発展させ、ものすごくたくさんの猿にひとつずつタイプライターを与え、ものすごく長い時間叩かせまくれば、まさしく天文学的な長さの無作為な文字の羅列が生まれることになる。この文字列の中には、およそ(そのタイプライターで打てる文字によって構成される)ありとあらゆる文章が含まれているはずだろう。たとえばウィリアム・シェイクスピアの全作品も、もちろん含まれている。

 さて、その猿たちはシェイクスピアと同等だということになるだろうか?

 

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 たとえが壮大すぎてついていけない人もいるだろうから、少しスケールダウンして考えてみよう。幸いなことに、日本にはこの猿タイプライター理論にうってつけの文芸形態が存在する。「俳句」だ。

 俳句はわずか17音、各節の字余りを考慮に入れてもわずか20音の、非常に短い定型詩だ。日本語の音素の種類をざっくり100種とすれば、この世にあり得る俳句すべての数というのは100の20乗、10の40乗……

 10000000000000000000000000000000000000000句

 となる。なじみのない数詞でいえば「1正」句、だ。

 この、「あり得る俳句すべて」を生み出すプログラムは簡単に書ける。愚直に、

・第1句「あああああ あああああああ あああああ」

・第2句「あああああ あああああああ ああああい」

・第3句「あああああ あああああああ ああああう」

 ……とやっていって最終句「んんんんん んんんんんんん んんんんん」まで続ければいいだけだ。このプログラムが吐き出す俳句の中には、「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」も「やせがえる まけるないっさ これにあり」も含まれている。ではこのプログラムは芭蕉も一茶も合わせてそれをなお超越する最高の俳聖なのだろうか?

 そんなわけはない。

 このプログラムを手渡され、「この世の俳句すべてが詰まっているよ。ありとあらゆる傑作すべてが、だ。どうだ、すごいだろう?」と言われたときにどう思うかを考えてみるといい。あなたはきっとフラッシュメモリを相手に投げつけてこう言うだろう。「ふざけるな。傑作は入っているかもしれないが、その何億倍ものゴミに埋もれていてどこにあるか探すだけで一生かかるじゃないか。傑作だけよこせ」

 

       * * *

 

 あなたのその叫びこそが、冒頭の質問への答えだ。

 俳句プログラムは松尾芭蕉ではない。10^40句の気の遠くなるようなゴミの中から「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」を選び出したのが松尾芭蕉の業績なのだ。同様に、猿を無限頭かき集めてもシェイクスピアにはなれない。猿どもが生み出した宇宙を埋め尽くすほどのゴミの中から「マクベス」や「リア王」を選び出したことこそがシェイクスピアの成した仕事だ。だからあなたが叫んだ通り、探すだけで一生かかる。

 小説も同じである。

 小説を書くという行為の本質は「選ぶこと」だ。

 次の一文、次の語句、次の文字、次に叩くキーを選び続けることこそが小説を書くということなのだ。無限に見えて、その実は有限個の選択肢の中から。

 

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 だから小説の書き方を学ぶというのは、すなわち「選択基準をつくる」ことに他ならない。猿が多すぎてうるさすぎたせいでだいぶ回り道してしまったが、ようやく本題に入れた。

 このブログは選択基準のつくりかた解説書である