猿とタイプライター

世界でいちばん役に立つ「小説の書き方」解説

15. 雪国に学ぶ《説明》と《描写》

 こんなブログを読んでいるあなたは自分で小説を書こうとしている人だろうから、これまでに《説明》と《描写》についての話をいくつか聞いたり、自分で意識して調べたりしたことがあるはずである。いわく、小説では説明だけではなく描写しなければならない、描写というのは五感に訴えかけるような文章のことで云々……。

 描写と説明のちがいにつて、あるいはそれぞれの効用について、正しく書かれた文章を僕は読んだことがない。だからここですべての予備知識を捨てて、以下を読んでいただきたい。引用するのは前回と同じく川端康成の『雪国』だ。

 

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 

  今回引用するのは冒頭の二文だけだ。説明と描写の真髄がここにある。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が説明であり、「夜の底が白くなった。」が描写である。

 

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 《説明》とはなんなのか、についての説明はあまり必要ではないだろう。……なんて書くと意味がわからなくなるから一応説明するが(この時点ですでに意味がよくわからなくなっているかもしれないが)、《説明》とは、読者に理解してもらいたい事柄をそのまま言語化して伝えることだ。主人公が哀しんでいることを伝えるために「○○は哀しかった。」と書き、ヒロインが主人公に恋していることを伝えるために「●●は○○が好きだった。」と書き、国境の長いトンネルを抜けると雪国だったことを伝えるために「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と書く。これが説明である。

 では《描写》は?

 辞書的な意味では、"描写"は「物体の状態あるいは心理の状態をありのままに浮かび上がるように描き出すこと」だが、小説の書き方における《描写》としてはこれではやや意味が狭い。小説においての《描写》とは、読者にある事柄を伝えるために行われる、《説明》以外のすべてを意味する。

 すべて?

 文字通り、すべて、だ。物体の状態あるいは心理の状態をありのままに浮かび上がるように描き出さなくてもいい。伝わるなら、そして説明ではないなら、すべて描写なのだ。現実問題として、ありのままに浮かび上がるように描き出すのが伝えるために最も効率的であるだけなのだ。

 最初に引用した『雪国』の二文目は、物体の状態であるところの「風景」を浮かび上がるように描き出した、ごくスタンダードな《描写》である。真っ暗なトンネルを抜け、雪国に入ったところで目に映る景色を読者の目にも浮かぶようにと選んだ表現が「夜の底が白くなった。」だ。簡潔、的確、かつ強力。見事な描写である。

 しかし、そうではない描写も存在する。

 物体の状態も心理の状態もありのままに浮かび上がるように描き出していないのに伝えたいことが伝わる描写の好例を引用しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  これは筒井康隆虚人たち』の一節である。また文字色を変えているのかと勘ぐってCTRL+Aを連打した人もいるかもしれないが、そうではない。ほんとうに空白なのだ。主人公が気を失って意識が空白になっていることの描写として筒井康隆はまっさらなページを十数枚ほど並べたのである。『虚人たち』は作中時間の進み方とぴったりリンクして文章が進んでいくという形態をとっている小説なので、主人公の意識がしばらく空白になっている時間を表すために対応した枚数を空白にしたわけだ。

 『虚人たち』は雑誌連載だったそうなので、このくだりが掲載された回はちゃんと原稿料がいつも通り支払われたのかどうか気になるところだが、それはともかくとして、なにも書いていなくても伝われば描写なのである。

 

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 《描写》は、パントマイムに似ている。

 もし『ガラスの仮面』を読んだことがおありなら、作中で北島マヤ姫川亜弓が独り芝居をするくだりを思い出していただきたい。二人とも演技にパントマイムを取り入れていた。

 小説家は、いわば読者の前で独り芝居をするパフォーマーだ。しかも使える機材は乏しく、大道具小道具はまったくなし。そこでたとえば、「目の前に椅子がある」ことを観客に伝えたいとする。どうするか?

「おや、椅子があるね」と言ってしまうのが《説明》。

 涼しい顔で空気椅子をしてみせるのが《描写》だ。

 

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 ここで、最初の『雪国』を引用した段にかなりの嘘を書いてしまったことをお詫びしたい。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が説明であり、「夜の底が白くなった。」が描写である――とは、ほんとうは断言できないのだ。

 ある一文をぽんと目の前に提示されたとしよう。あなたはそれが《説明》なのか《描写》なのか判別できるだろうか?

 もちろんできない。《説明》と《描写》のちがいは文章そのものにはない。それは伝えたい事柄との関係性の差だ。だから第一に、著者に訊いて伝えたい事柄を確認しなければ判別できない。第二に、一文で伝えたい事柄がひとつだけとは限らないので、ある面では《説明》であり他の面では《描写》でもある文章がいくらでも存在する。というよりも、たいがいの文章は《説明》と《描写》のどちらでもあるのだ。

 たとえば「彼はためらいなく父親を殺した」という一文があったとしよう。これは、その男性がためらいなく父親を殺したという出来事を伝える目的にとっては《説明》だが、その男性が抱いている父親への憎悪を伝える目的にとっては《描写》だ。

 実に、小説の大部分はこんな二面性を備えた文章で構成されているのである。

 したがって『雪国』冒頭の二文についても、せいぜいこう書くことしかできない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は説明度が高く、「夜の底が白くなった。」は描写度が高い――と。

 

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 さて、なぜ小説において《描写》がもてはやされるのだろうか?

 第一に、描写は説明よりも強く読者に伝わる。独り芝居をしていて登場人物が殴られて痛がる場面があるとしよう。「殴られた! うわ、痛い!」と言うよりも、実際に自分の頬を殴り、後ろに吹き飛び、ついでに唇の端から血でも流して苦悶の表情をしてみせた方が痛みはよりはっきりと観客に伝わるだろう。文章でも同じだ。

 第二に、描写はそれ自体が一種の芸なのである。パントマイムが単体で芸として成立しているのと同じ理屈だ。説明もしていないのに伝わってしまうという現象そのものが、お金を払ってもいいレベルになり得るパフォーマンスなのだ。

 しかし、《描写》の持つ負の面を忘れてはいけない。

 描写は読者に想像力の負担を強いる。どれだけ見事な空気椅子のパントマイムをみせられたところで、経験や想像力を発揮しなければ"変な風に腰と膝を曲げて静止している"としか見えないわけだ。「夜の底が白くなった。」と書かれていたところで、経験や想像力を発揮しなければトンネルを抜けて夜の雪の平野が目の前に広がった情景というものは浮かんでこないわけだ。

 だから描写をするにあたっては読者の経験や想像力を考慮し、アシストすることが必要になる。最も頻繁に使われる効果的なアシストは説明とセットにするというやり方だ。パントマイムであれば、「これから椅子に座ります」と言ってからパフォーマンスをする。小説であれば? もうおわかりだろう。そう、「夜の底が白くなった。」の前に「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と書くのである。

 

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 第15回にしてはじめて実用的なことを書いた気がする……。