猿とタイプライター

世界でいちばん役に立つ「小説の書き方」解説

6. 骨は作るのではなくそこに沈んでいる

 物語のクライマックスでどんなふうに読者を感動させるかが決まったら、次にやることは、僕が個人的に「骨を洗い出す」と呼んでいる作業である。

 骨というのは物語の骨格のことなのだが、「骨格を作る」のではない。あくまでも「砂にまみれてしまって見えない骨格をたっぷり水を流して洗って再発見する」のだ。なんのことかさっぱりわからないだろうから、詳しく説明しよう。

 

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 物語というのはすべて人間の成長を描くものだ。

 えっ? と驚かれた方も多かろう。すべて、と断言していいのか、そうじゃないのも少しはあるだろう、と。しかし断言していい。すべて、だ。

 たとえ生物としての人間が全然出てこない物語であっても、登場する動物や植物などは人格を持った描かれ方をしているはずだ。そして、時間の経過にしたがってなにかを描くからには、物語の最初と最後を比べれば登場人物になにかしらの変化が起きているはずで、どんな変化でも善し悪しは一概には判断できないのだから、おしなべて成長と呼べるだろう。

 このように「人間」と「成長」という言葉を好き放題に拡大解釈することによって、すべての物語を包括できるのだ。

 

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 村上龍は、友人であるアメリカの脚本家の持論として、「すべての物語は、人が穴に落ちて、そこから這い上がるか、穴の中で死ぬか、そのふたつに分類できる」という説を紹介している。

 なお、この説はわかりやすくてインパクトがあるせいかけっこう知っている人が多いのだが、巷間を伝わるうちに伝聞部分が忘れ去られ、「村上龍自身の持説」にされている。こうして有名人の格言は捏造されるのだ。

 

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 それはともかくとして、物語を人間の精神的成長という形に当てはめるメソッドは非常に強力で、使わないという選択肢は僕には考えられない*1。理由はごく単純で、人間が精神的に成長したところを見るとだれでも心動かされるものだからである。

 「成長」には、マイナス成長も含まれる。精神的成長の裏返し――気丈だった人間の心が折れるとか、正義が悪に堕ちるとか、温和な人間が憎悪に塗りつぶされて復讐に走るとか、そういった変化もまた恐怖とか絶望とか哀憐といった形で読み手の心を揺さぶる。

 このメソッドのもうひとつ便利な点は、読み終わったときの満足感を与えやすいというところである。読み手もまたメソッドが身に染みついているので、主要人物が精神的に成長したところが話の大きな区切りだと感じるようにできている。

 また、作者側の最大の利点として、今後なにを考えて書けばいいかの指針になるという点が挙げられる。成長を描くからには、初期段階では成長していない状態の主人公を描く必要がある。その主人公に対するまわりの反応などで問題意識を形成する必要もある。成長する契機も考える必要がある……と、物語のあらゆる部位において、なんのためにここを書くのかという理由が明確になるのだ。

 

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 それでは、あなたの手元にある素材、つまり「クライマックスで感動させる仕掛け」を精神的成長メソッドに当てはめ、物語の背骨を洗い出してみよう。物語の背骨とは、

「最初○○だった主人公が、色々あって、最後は成長して●●になる」

 ……という定型文のことだ。この○○と●●にあたる部分を洗い出すわけだ。

 なぜ「作る」とか「組み立てる」ではなく「洗い出す」なのか?

 それは、ほとんど選択肢がないからだ。

 クライマックスで感動させる仕掛けというのは、意外な真実が明かされるというパターンだったり、知略を駆使して敵に見事勝利するというパターンだったり、とにかくかなり具体的だ。ある具体的なエピソードと前後して起きる「人間の精神的成長」なんて、だいたい一つか二つしかあり得ないのだ。そもそも、人間の精神的成長のパターンは限られている。弱虫が勇気を出すとか、哀しみに暮れていた人が乗り越えるとか、復讐だけに生きていた者が他の生き甲斐を見つけるとか、思いつくものをがんばって全部並べたところで百にも届かないだろうし、どれも似たり寄ったりだ。クライマックスが決まっている時点で、背骨もだいたい決まっているのである。それを顕在化させるだけだから、「洗い出す」なのだ。というか、「洗い出す」という意識を持たず、「作る」とか「組み立てる」とか考えていると、不自然なものになってしまう可能性が大きい。

 たとえば『神様のメモ帳』のクライマックスでは、「ヒロインの飛び降り自殺が実は主人公を想っての行為だった」という真実が明かされる。このクライマックスにふさわしい精神的成長を、あなたはいくつ思いつくだろうか? 実は主人公を想っての行為だった、ということは、真実が明かされる以前は「彼女は主人公のことなんて考えずに自分勝手に飛び降りた」と(読者や主人公に)思わせておいた方が大きなギャップができて感動が起きやすい。とすると、主人公とヒロインの間にしっかりした友情だの愛情だのがなかった方がいい。主人公は最初、人間関係に対して冷ややかな考え方を持っていた方がいい。それなら、人間関係に対して冷ややかだった主人公が、明かされる真実を知って、人生の熱みたいなものを獲得する、という大筋が最適だろう……。『神様のメモ帳』の背骨はこんなふうにして洗い出された。僕が選んだ部分はほとんどない。

 神メモはクライマックスが精神的成長の「きっかけ」になっているパターンだが、そうでないパターンもある。『放課後アポカリプス』のクライマックスはゲーム世界の真実が明かされるところだが、真実の内容は主人公にプラスの影響を与えるものではなかった。むしろマイナスである。この場合は二つの選択肢がある。一つ目はマイナス成長パターン。真実を知って主人公も読者も深く絶望させて話を終わらせるという筋だ。これは「クライマックスが成長のきっかけ」タイプとなる。二つ目は、真実に薄々気づいていながら直視できなかった主人公が最後には向き合う勇気を出す、という成長パターン。これは「クライマックスは成長の結果」タイプだ。僕が選んだのはこちらだった。こっちの方が読みたいと思ったからだ。

 このように、「読者を感動させる仕掛け」と「主人公の精神的成長」には様々な関わり方があり得る。なるべく深く関係させた方がいい。相乗効果でどちらの感動も大きくなるからだ。そして、前回の記事で「クライマックスを最初に思いついていたケースの方がその後が楽」だと書いたが、その理由の一つ目がこれだ。クライマックスは物語の最後の方、つまりは主人公が精神的に成長するポイントの近くに置かれることが多いので、最初に決まっているなら物語の背骨を見つけやすいのである。『さよならピアノソナタ』は先述の通りクライマックスを最初に思いついたわけではない。だから、「主人公が一度は棄てた音楽への情熱を取り戻す」という背骨を洗い出すまでにはけっこう苦労を重ねた。

 

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 それではどうやって物語の背骨を洗い出すのか?

 身も蓋もない話になるが、慣れしかない。

 僕がやっているのは、個人的に「水を流す」と呼んでいる作業だ。なんでもいいから、物語の頭と、クライマックスと、結末を並べてみる。これこれこういう主人公が、こういうことがあって、こんなふうに成長する、と。そこに「水を流す」。物語の始まりから終わりまでの経過をぼんやり想像するのだ。大昔に見た映画のあらすじを思い出そうとするような感覚で。

 うまくいかなければ頭と結末を別のものに変えて、また「水を流し」てみる。そのうちにだんだんと余計なものが押し流されて、物語の背骨が見えてくるはずだ。だから「洗い出す」なのだ。

*1:何度でも口を酸っぱくして言うが、読者の感動がすべてである。だから人間の成長を描かなくても読者の心をつかんで揺さぶれるのなら、描かなくていい。たとえば全編にわたってギャグで押し通す話などはこのメソッドは不要かもしれない。しかしそれは茨の道だ。僕はこのメソッドを使わずに物語を創ったことが一度もないので、使わないやり方は本ブログでは解説できない。