猿とタイプライター

世界でいちばん役に立つ「小説の書き方」解説

14. どんな文章力も雪国の白に染まる

 くだんの編集者からせっつかれたため、第二部開始、である。

 第二部では、実際の執筆段階において考えることに踏み込んでいこう。まずは、文章そのものの話から。

 

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 文章力、という摩訶不思議な言葉がある。だれもが、実態をよくわかっていないにも関わらずこの言葉を使う。なにをどうする力なのか、明言できる人間はいない。にもかかわらず、この言葉は通用してしまう。つまり、文章力があるかどうかについて具体的な作家名を挙げて複数人で論じてみると、さほど議論にならない。だいたい共通見解が出る。

 それはおそらくはっとさせる語句の選択であったり、新鮮な視点の置き方だったり、美しく淀みない論理の展開であったり、そういった様々な要素の複合評価なのだろう。

 複合力である文章力の中で、最も大切な力はなにかわかるだろうか?

 それは、読ませる力、だ。

 他のあらゆる力――豊富な語彙、視点の妙味、明快で華麗な論理展開などがいくらあったとしても、読ませる力がなければ駄文である。

 ちょっと待て、とあなたは思うだろう。他のあらゆる力を備えていながら、読ませる力だけがない文章なんて存在するのか? それは「美人で気立てが良くて話も上手いのにだれからも愛されない女」みたいなもので、存在し得ないのでは?

 存在する。実例を挙げよう。

 以下に引用するのは、川端康成の『雪国』の冒頭だ。

 

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

 

 いかがだろうか。稀代の名文であるが、読ませる力だけが見事に抜け落ちていることがおわかりだろう。文字色を背景色と同じ白にしたのだ。読みたければCtrl+Aでどうぞ。

 馬鹿にしているのかと怒る前に、あなたの部屋にある書籍を片端から開いて、ページに使われている紙をよくよく見てほしい。どの本も真っ白ではなくわずかに茶色がかっているはずだ。それは書籍用紙といって、紙の中ではかなり高価な部類に入るものだ。なぜどの出版社もそんな高い紙をわざわざ使うのか、そしてなぜきまって黒いインクで印字するのか、考えてみたことはあるだろうか?

 読ませるためなのだ。

 長い長い文章を、なるべく疲れさせずに最後まで読んでもらうための数多くの努力のひとつが高価な書籍用紙であり、黒いインクなのだ。

 読ませる力のない文章は存在しないに等しい。たとえ美人で気立てが良くて話も上手い女だとしても、土蔵に一生閉じ込められていればだれからも愛されないのと同じことである。

 

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 以降、文章についての話のほとんどは、「どうすれば読ませる文章を書けるか」についての考察となる。おつきあいいただきたい。

13. はじめに:星を見上げることについて

 さてさて、キャラクターはどこからでも連れてきていいとわかった。物語の構造についてもまずまず理解した。書くべき題材も決まっている。いよいよ実際に物語を形にし始めるときだろうか?

 残念ながら、その通りだ。

 なにが残念なのか。

 小説は企画をこねているときがいちばん楽しい。具体化しようとすると、とたんに苦しい時間ばかりとなる。それはパーティの準備に似ている。どんな料理にしてどんな演出をしてどんな客を招待して……と考えている間は楽しいが、いざ準備の実務に入ると、会場の選定と予約、予算のやりくり、招待客への書状郵送と出席確認、と楽しくない作業ばかりだ。再び楽しい時間が訪れるのはずっとずっと後、パーティを終えて二次会の飲み屋で座布団に腰を下ろした瞬間である。

 けっきょくのところパーティを楽しむのは客であってあなたではない。小説も同じだ。

 そんなわけでようやく、このブログも序文を書くことができる段階に至った。

 

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 これまで12回も書き連ねてきて、なぜ今さら序文なのか。それは、最初に書いても理解されないだろうと思ったからだ。反吐が出るほどの繰り返しの果てにあらためて読ませてようやく納得してもらえるであろう文章なのだ。

 このブログを書こうと思ったのは、ある編集者と飲んだときの話がきっかけだった。彼は他部署から異動してきたばかりで小説についてはまだまだ勉強中で、小説の書き方をわかりやすく教えてくれる決定版みたいな本があればいいのに、とこぼしていた。そこで僕は言った。

 小説の書き方を教えられる小説家というのは、実はほとんどいないんですよ。なぜかというと、教える側にも教わる側にもメリットが全然ないからなんです。まずもってして、小説という芸事にはフィジカルな要素がいっさいありません。シェイクスピアが書く"a"も、僕が書く"a"も、小説家ではない一般人が書く"a"も、情報の面から見てまったく同一です。つまり表現の段階において肉体的な鍛錬の必要がない。これは他の芸事には見られない特徴です。音楽、舞踊、絵画、みんな地道な練習による技術の向上が必要ですよね。思った通りに身体を動かすために、まず反復練習が欠かせないわけです。ところが文字だけで成り立つ芸事、小説とか詩作は、考えた内容と作品とが完璧に等しい。「頭の中で思い描いている理想の動き」と「現実の身体の動き」を結びつけるための訓練が不要なわけです。これがどういうことかというと、師事して学ぶ必要がないということです。漫画ならアシスタント制度があって、漫画家の作業を横で見ながらアシスタントがたくさんのものを学んでいって自分も独り立ちするという流れがありますよね。小説家にはそれがない。教える側には、とくに手伝ってもらうことがない。教わる側も、執筆作業を横で見ていてとくに吸収できるものがないんです。むしろ小説家に幻滅するかもしれません。五分おきにスマホいじったり漫画読んだりしてますからね。そして頭の中身と作品に差異がないということは、完成作品を読めばほとんど学べてしまうということでもあります。だから同業者のほとんどはだれにもなにひとつ教わらず、ただ多くの物語を読んで、書き方を理解してプロになった人間です。体系立てて学んでいないから、体系立てて教えることもない。もちろん小説家が自分のやり方をいくつか語ることはありますよ。参考になるかならないかでいえばなることも多い。でもそれはあくまでその人のやり方です。民間療法と同じで、とても非効率的なやり方だけれど部分的に偶然有効なだけかもしれない。人によっては有害かもしれない。かといって小説作法を包括的にすればするほど、「面白いものを書きましょう。ただしその方法は自分で考えて」というとてつもなくつまらない一文に限りなく近づいていきます。そんなものを読みたいんですか?

 彼は二杯目のカクテルを注文した後で(僕の話が長すぎたのだ)うなずいた。それでも読みたい、と。

 そこで僕はこのブログを開設した。ブログタイトルはけっこう迷ったが、その下に表示されるキャッチコピーには迷わなかった。自信を持って言える。このブログは世界一役に立つ「小説の書き方」だ。けれど求めるものがちがう人にとっては、世界一役に立たないだろう。ここでは地図もコンパスもあなたに与えることはない。ただ北極星の美しさをたしかめさせるだけだ。それでもいいのなら、続きを読んでほしい。